story
episode:01
「暮らし」と「建物」に想いを寄せた時、その地に根差した「暮らし」と「建物」であるべきと…。
その想いから、その地の歴史を紐解くと、素敵な物語がありました。
昭和初期より、この辺りに100軒あまりの貸アトリエが建てられ、いくつものアトリエ村が散在していたそうです。これらのアトリエ村は、1920年代、芸術の中心地であった、パリのモンパルナスになぞらえ、詩人・小熊秀雄によって「池袋モンパルナス」と名付けられました。
100年前の「池袋モンパルナス」に想いを馳せ、100年後の「暮らし」と「建物」に想いを馳せた時、この物語が始まりました。
100年前のこの地には、大正デモクラシーと相まって、こんなにもエネルギーに満ちた時代があったんだと…。15帖程のアトリエで何をはき出し、表現すべきなのかと自らを見詰め、夜な夜な池袋にくり出し、自らを確かめる。ここでの「暮らし」こそが、求道と放恣の地であり、居であったのだろうと…。
この「池袋モンパルナス」に想いを馳せた時、改めて、居である建物について想うことから始まりました。残念ながら、戦火の影響もあり今や、その姿を見ることは叶いませんでしたが…。
「池袋モンパルナス」解説
1903年、池袋駅が開業し、上野-池袋間が開通したことで、上野エリアに住んでいた芸術家達が移住するようになった。そんな中、詩人の花岡謙二が、「培風寮」という下宿屋を今の要町に建てたことが起源と言われる。その後、武家の資産を引継いだ奈良慶子という老女が、画家志望の孫の為に建てたアトリエが、孫の友人達の美術学生に好評だった為、昭和6年頃に要町にアトリエ付き貸家を10軒ほど建てた。これが、その後のアトリエ村「すずめヶ丘」となった。以後、実業家初見六蔵が低湿地だった長崎の地に「桜が丘パルテノン」をつくり、このエリアにアトリエ村が散在することに至った。その結果、池袋西口から西、約1.5km先辺りから、100軒余りの貸アトリエが建てられ、そのアトリエ村群は、今の長崎、千早、要町に渡り形成され、芸術の都パリのモンパルナスになぞらえ、詩人・小熊秀雄によって「池袋モンパルナス」と名付けられた。
そこでは、貧しい芸術家達が創作に励み、夜になると池袋に繰り出し、夜な夜な語り合ったとか…。主なアトリエ村は、要町にあった「すずめヶ丘」(20数軒)、長崎にあった「桜ヶ丘パルテノン」(70軒)、千早にあった「つつじヶ丘」(10軒)、その他、板橋区南町の「ひかりヶ丘」、「みどりヶ丘」などが存在し、これらのアトリエ村からは、靉光(あいみつ)、松本竣介、寺田政明、小熊秀雄、丸木位里・俊、麻生三郎、長沢節らが後生に出ている。